【実録:シーズン3】第1章:三度目の部屋、同じ顔ぶれ、違う覚悟

人生

既視感だらけの待ち合い室

家庭裁判所の待ち合い室独特の、あのどんよりとした重苦しい空気。 壁にかけられた無機質な時計の針が、コク、コクと音もなく時を刻んでいる。

初めてここを訪れたときは、息が詰まるほどの緊張感に押しつぶされそうだった。2回目のときも、腹の底がズシンと重くなるような強い嫌悪感と疲労感に苛まれた。しかし、3回目ともなると人間というのは恐ろしいもので、どこか冷めた客観性すら漂ってくる。

(こんなに何度も離婚調停の待ち合い室に通っている奴が、この世の中にどれくらいいるんだろうな……)

長椅子に深く腰掛け、天井の蛍光灯をぼんやりと眺めながら、そんなくだらないことを考えていた。 片道2時間、往復4時間という果てしない毎日の通勤時間。車のハンドルを握りながら嫌というほど培われてしまった「自分を上空から見下ろすような変な癖」が、こんな場所でも勝手に発動してしまう。

過去2回の調停は、すべて相手方からの申し立てだった。 「離婚したい」と声を大にして騒ぎ立て、私をこの場に引きずり出したくせに、話し合いが行き詰まるとあっさりと逃げ出し、不調(不成立)で終わらせた。そして今回、久しぶりに届いた茶封筒を開けてみれば、訴訟を起こす覚悟すらないまま「婚姻費用の増額(生活費をもっと寄越せ)」という甘えきった要求を突きつけてきたのだ。

あんな中途半端な姿勢に、これ以上、私の貴重な人生と時間を切り売りするつもりは毛頭ない。 休日の土曜日、淹れたてのコーヒーを飲む気にもなれず、Macのキーボードを叩き叩き叩き、深夜まで法的な手続きとロジックを調べ上げたあの夜。私の中で固まった決意は、今や揺るぎない岩のようになっていた。

今度は、私から仕掛ける。受け身のゲームはもう終わりだ。

「お待たせしました。どうぞ」

調停委員の声に促され、私はゆっくりと立ち上がった。
背筋を伸ばし、ジャケットのボタンを留める。胸の奥は驚くほど静かだった。

「また来ましたか」という空気

案内された調停室の重いドアを開ける。 長机の向こうに座っていたのは、見覚えのあるもう一人の調停委員。前回とまったく同じ顔ぶれだ。

向こうも私の顔を見た瞬間、一瞬だけ目を見開き、コンマ数秒の気まずい沈黙のあと、複雑な表情を浮かべた。「ああ、また来ましたか……」と言いたげな、妙な既視感が部屋全体を満たす。

「どうぞ、お掛けください」

男性調停委員が手元の分厚いファイルに目を落としながら、静かに口を開いた。
さすがに2回も調停すれば、そのくらいの分厚さになるんだろうなと感じた。

「さて……手元の書類を確認させていただきましたが、今回は相手方からの婚姻費用増額調停と平行して、あなたの方から『離婚調停』の申し立てがあったわけですね」

これまでの2回、私は常に防戦一方だった。相手が繰り出してくる主張に対し、いかに防御し、いかに理不尽を訴えるかという「嵐が過ぎ去るのを耐える戦い方」しかしていなかった。だからこそ、調停委員にとっても、私が自ら打って出たこの攻守逆転の展開は少し意外だったのだろう。

私は二人の調停委員の目を真っ直ぐに見据え、低く、しかしハッキリとした声で答えた。

「はい。もういい加減に、次に進みたいので」

余計な感情論や相手への愚痴は一切省いた。ただ自分の人生の停滞を終わらせ、前へ進むのだという固い意志だけをその一言に込めた。 部屋の空気が一瞬でピンと張り詰めるのが分かった。調停委員の目の色が少し変わる。「この人はもう以前のように揺らがない」というメッセージは、十分に伝わったはずだ。

「……分かりました。では、ご主人が提示されている条件について、一つずつ確認させてください」

女性調停委員がメモ用紙にペンを走らせながら語りかけてきた。

条件の提示と「共同親権」の壁

私はMacの前で事前に整理してきた主張を、順を追って淡々と並べていった。

まず親権について。

「親権については、共同親権を希望します」

すると、女性調停委員が少し身を乗り出し、慎重な選ぶような口調で言った。

「共同親権についてですが……法改正の動きもあり、選択肢として注目されてはいます。ただ、実際に調停や判決で適用・運用していくとなると、やはり父母間での円滑なコミュニケーションや協力体制がどこまで構築できているかが最大のポイントになります。現状のお二人のやり取りの経緯から拝見しますと、裁判所としてはかなりハードルが高いと言わざるを得ませんが……」

調停委員の懸念は、百も承知だった。相手は感情論に終始し、まともな話し合いすら成立しないのが現実だ。裁判所が慎重になるのも無理はない。

だが、私は引き下がるつもりはなかった。

「状況は理解しています。しかし、私は父親としての責任を果たす覚悟がありますし、あやふやなまま有耶無耶にする気はありません。……それに、私は今回の調停で相手がまた逃げに回り、不調に終わるようなことがあれば、迷わずそのまま『訴訟(裁判)』を起こす覚悟です。法廷で白黒つける準備はすでにできています」

「訴訟」という明確な言葉を口にした瞬間、男性調停委員の手がピタリと止まった。

これまでのように「調停がダメなら諦めて現状維持」という選択肢は、私の中には存在しない。不調に終われば、その足で弁護士事務所へ走り、裁判手続きへ移行するだけだ。相手方のように「覚悟のない脅し」として言っているのではないという本気度が、静かな決意となって部屋に響いた。

「……そうですか。訴訟まで見据えておられるのですね。分かりました。相手方にもその旨、強いご意思として伝えます」

調停委員は深く頷き、手元の書類に何かを書き込んだ。

最大の難関、「家」という現実

「さて……」 男性調停委員がメガネの位置を直し、一段とトーンを落とした声で本題に切り込んできた。

「親権と養育費については了解しました。養育費も算定表通りということで、筋は通っています。問題は……財産分与、特に『ご自宅』の扱いですね。これについて、ご主人は具体的にどうされたいとお考えですか?」

家。 かつては家族の未来を夢見て購入し、思い出が刻まれた場所。そして今となっては、毎月の重い住宅ローンと、泥沼の感情が絡みつく最大の負の遺産だ。

私は迷わず、準備していた答えを言い放った。

「売却して、完全に清算します」

一瞬、調停委員同士が顔を見合わせた。

「売却、ですか。ですが……現在、あなたとお子さんが居住されていますよね? 」

「売却し、精算したいと考えています。もちろん、これまで別居してからのローン返済を考慮していただきたい。私が納得できなければ、裁判の中で主張します」

私は畳みかけるように続けた。

「子ども名義の口座も含めて、すべての資産をテーブルの上に並べます。隠し立ては一切しません。その代わり、この家という巨大な資産と負債についても、完全に二分してケジメをつけます」

離婚はしないが金は欲しい。家には住むが責任は負わない。 そんな相手の中途半端な依存心を断ち切るには、「売却して清算する」という現実を突きつける以外に道はないのだ。

夫婦共有名義の住宅だが、住宅ローンの名義人は私だ。私がこのまま家を放置すれば、相手は私の血汗で支払われるローンに乗っかり続け、私は一生その重荷を背負って生きていくことになる。そんな生き殺しの状態を許すわけにはいかない。

「家を売る。残ったお金、あるいは残った借金を綺麗に分ける。これまでの返済を考慮していただく。それで終わりです」

私の言葉には、一切の迷いがなかった。

主導権を取り戻した瞬間

女性調停委員が、少し感心したような、あるいは圧倒されたような表情で私を見た。

「あなたの主張は、わかります。……ただ、相手方にとっては非常に厳しい条件突きつけとなるため、激しい反発が予想されますが、よろしいですね?」

「構いません」

私は即答した。

「相手が反発して話し合いを拒否するなら、先ほども言った通り不調で結構です。そのまま裁判へ移行し、裁判官の判決に従って粛々と家を処分するだけです。逃げ続ける相手に付き合う時間は、もう私にはありません」

一通りの主張を終えたとき、胸の中にあったモヤモヤとした霧が、嘘のように晴れ渡っていくのを感じた。

1回目、2回目の調停のときは、相手が何を言ってくるのか、裁判所がどう判断するのかにおびえ、ただ翻弄されていた。だが今は違う。土俵に立っているのは、誰かに動かされている私ではなく、自分の意志で未来を選び取ろうとしている私だ。

「分かりました。では、一度控室でお待ちいただき、相手方を部屋にお呼びして、今のお話と条件をお伝えします」

男性調停委員が立ち上がり、私に礼をした。

「よろしくお願いします」

私は静かに頭を下げ、調停室を後にした。 扉を閉め、冷たい空気の流れる廊下を歩く。

相手が今、どんな顔をして隣の控室に座っているのかは知らない。 私の主張を聞いたとき、どんな悲鳴をあげ、どんな言い訳を並べるのかも目に見えている。

だが、もうどちらでもいいのだ。 私の出したカードは「完全な決別」であり、それを拒否するなら「裁判での全面戦争」があるだけ。

自分の人生の舵(ハンドル)を、ようやく自分の手に取り戻した。 往復4時間の長い通勤路で擦り減らしてきた私の心は、今、かつてないほど力強く拍動していた。

(第2章へ続く)

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