【実録:シーズン3】最終章:審判の庭へ

人生

1. 控室の静寂と、叩きつけられた理不尽

調停室の重いドアを閉め、冷たい空気の流れる廊下を歩いて、再び「既視感だらけの待ち合い室」へと戻ってきた。

長椅子に深く腰掛け、天井の蛍光灯をぼんやりと眺める。

壁にかけられた無機質な時計の針が、コク、コクと音もなく時を刻んでいる。

初めてここを訪れたときの息が詰まる緊張感も、2回目のときの腹の底が重くなる嫌悪感も、今の私にはない。胸の奥に広がっているのは、冷徹なまでに研ぎ澄まされた静寂だけだった。

(……ふざけるのも、大概にしろよ)

肘掛けに置いた自分の手に、じわりと力が入る。

控室で一人、私の意識を占めていたのは、この期日に先立って送付されてきた相手方の「財産分与に関する主張書面」の内容だった。

今回の調停に臨むにあたり、私はMacに向かい、血の滲むような思いで過去の通帳履歴、口座明細、住宅ローンの返済記録を徹底的に洗い出した。数字とロジックを積み上げ、完璧な主張書面を作り上げて提出していたのだ。

夫婦共有財産は、法が定める原則通り「二分の一ずつ」折半する。子供名義の口座もすべてテーブルの上に並べてオープンにし、別居後に私が一人で返済し続けてきた住宅ローンの負担や実績も当然考慮した上で、家を含めた全資産を完全に二分して綺麗に清算する。

それが法であり、人としての筋だと思っていた。

だが、それに対して相手方が突きつけてきた書面の主張は、開いた口が塞がらない、まさに呆れ果てる代物だった。

『申立人(私)の度重なる浪費によって貯蓄ができなかった。したがって、現在残っている共有財産はすべて相手方(妻)のものである』

……笑わせるな、と思った。

毎日の往復4時間という果てしない通勤に耐え、泥のように働き、血汗を流して家計に金を放り込み続けてきたのは一体誰だ。自分の欲を抑え、固定費を削り、家族のために身を削ってきた人間に対して「浪費で貯蓄ができなかった」だと?

家庭の維持のために削られてきたのは、常に私の時間と精神だったはずだ。

自分の都合のいいように事実をねじ曲げ、都合の悪い現実に目をつむり、感情論を塗りたくり、「自分は被害者だからすべての金をもらう権利がある」と言わんばかりの甘えきった主張。どこまで人に依存し、どこまで人の人生を食い物にすれば気が済むのか。

あんな中途半端な姿勢に、これ以上私の貴重な人生と時間を切り売りするつもりは毛頭ない。

怒りで血が沸騰するどころか、あまりの理不尽さに心がスーッと冷えていくのを感じていた。

相手にまともな理屈や議論を期待すること自体が間違いなのだ。あの主張を見た瞬間、私の中で固まっていた決意は、もはや絶対に砕けない岩となっていた。

こちらが妥協することなど万に一つもない。二分の一の主張を曲げる気は一切ない。

相手がその現実を受け入れられないというのなら、この調停という生ぬるい場は、いよいよ終わる。

2. 異質な和やかさ

「お待たせしました。どうぞ」

廊下から声が聞こえ、調停委員が控室のドアを開けた。

2回目の呼び出しだった。

相手方との話し合いを終え、私を再び調停室へと促す。

私は静かに立ち上がり、ジャケットのボタンを留め、背筋を伸ばした。相手が私の突きつけた「家を売却して清算する」「不調ならそのまま裁判を起こす」という現実を突きつけられ、どんな悲鳴をあげ、どんな言い訳を並べ立てたのか。それを確認する時が来たのだと、胸の奥で身構えていた。

「失礼します」

案内された調停室の重い扉を押して中に入る。

一歩足を踏み入れた瞬間——私は強烈な「違和感」に襲われることになった。

部屋の空気が、あまりにも和やかなのだ。

つい先ほどまで存在していた、あのピンと張り詰めた緊張感や、互いの主張がぶつかり合うような重苦しい気配が綺麗に消え去っていた。長机の向こうに座る二人の調停委員は、まるで親しい知人とのお茶会でも終えたかのように、柔らかく、穏やかな表情を浮かべいていた。

「どうぞ、お掛けください」

男性調停委員が、手元のファイルから顔を上げて穏やかに促した。

言われるがまま椅子に腰を下ろしたものの、私の頭の中には大きな疑問符が浮かんでいた。

一体、相手方とどんな激しい議論が交わされたのか。どんな怒号や涙が飛び交ったのか。

そう身構えていた私に対し、女性調停委員が口を開いたのは、まったく予想外の言葉だった。

「いやあ、ご主人のところのお子さん、スポーツで全国大会に出場されたそうですね。遠方まで応援に行かれたとか」

「……ええ。まあ、そうですね」

唐突な話題に戸惑いながらも答えると、男性調停委員も深く頷き、実に嬉しそうな笑みを浮かべた。

「いやあ、素晴らしいですね。全国大会なんて、めったに行けるものではありませんよ。遠征となると準備も移動も大変だったでしょうが、お子さんも大舞台で本当に頑張っておられて。親御さんとしても、応援に熱が入ったんじゃないですか?」

「ええ……子どもの成長を間近で見られたのは、親として本当にありがたいことでした」

そこから数分間、調停室で繰り広げられたのは、子供の全国大会での活躍や、遠方への遠征にまつわる苦労話、応援に行った際のエピソードといった、拍子抜けするほど穏やかな雑談だった。

調停委員たちは終始笑顔で、私の話に身を乗り出すように耳を傾け、子供の努力や親としてのサポートを惜しみなく称えてくれた。

一見すると、非常に温かく、心温まる時間のように思えるかもしれない。

だが、片道2時間の車通勤で培われてしまった「自分を上空から見下ろす変な癖」が、冷徹にその場を観察していた。

(……なんだ、この空気は?)

なぜ、離婚や財産分与という泥沼の対立が交わされているはずの場で、こんな家庭的な世間話が弾んでいるのか。私の頭の片隅で、冷めた警報が鳴り響いていた。

この和やかさは、決して歩み寄りの兆しでもなければ、話し合いが良い方向へ向かっているサインでもない。

むしろ、その正反対だ。

裁判所(調停委員)はすでに、この調停の「着地点」を見定めてしまったのだ。

相手方に私の条件(婚姻費用増額の拒否、離婚調停の申し立て、共同親権、住宅の売却清算、不調なら即訴訟)を伝えた結果、相手方が猛反発し、一切のロジカルな議論が不可能であると悟ったのだろう。双方の主張が平行線をたどり、これ以上この部屋で話し合いを続けても1ミリも前進しないことを、調停委員は確信したのだ。

だからこそ、彼らはもう議論を戦わせることを諦めた。

これ以上、双方の感情を刺激して無駄な摩擦を起こさないよう、穏やかな雑談で場を和らげ、後味を悪くさせないまま「着地」させようとしている——。

調停委員たちが浮かべる優しい笑顔の裏にある、裁判所という組織の「冷徹な諦めと線引き」を、私は敏感に感じ取っていた。

3. 三度目の不調、そして幕切れ

世間話が一巡し、心地よい沈黙が訪れたタイミングで、男性調停委員が小さく咳払いを一つした。

その瞬間、彼の表情から柔らかさが消え、プロフェッショナルな裁判所の顔へと戻った。

「さて……ご主人の強いご意思と、ご提出いただいた主張書面の内容につきましては、相手方にも正確にお伝えしました」

私は無言で頷き、続きを促した。

「相手方の反応ですが……率直に申し上げまして、ご主人の提示された条件を受け入れる姿勢は一切ございませんでした。親権についても、ご自宅の売却清算についても、激しい拒絶を示しておられます。一方で、相手方から出されている『これまでの貯蓄はすべて申立人のもの』という主張についても、ご主人が到底受け入れられないことは、我々も十分に理解しております」

女性調停委員も、申し訳なさそうに、しかしハッキリとした調子で続けた。

「双方から出されている主張、そして前提となる事実認識があまりにもかけ離れております。財産分与に関しても、お互いに一歩も譲る気配がなく、この調停の場において歩み寄ることは不可能であると判断せざるを得ません」

男性調停委員が手元の分厚いファイルを開き、そこに挟まれた書類に視線を落とした。

「よって、本日の期日をもちまして、双方の話し合いは限界に達したものとみなし、調停は『不調(不成立)』として終了とさせていただきます。以上となります」

あっけないものだった。

今回の調停は、わずか3回目で終了となった。

時間にして、本日通された時間はほんの数十分。部屋に響いたのは、事務的で、冷ややかな宣告の言葉だけだった。

「双方の意見がかけ離れており、調停の場では解決ができません。よって、調停は不調、不成立となります。以上」

その一言が落とされた瞬間、部屋の空気が完全に静止した。

普通であれば、ここまで費やしてきた時間や労力を思い、ショックを受けたり、絶望感に苛まれたりする場面なのかもしれない。しかし、私の胸に湧き上がってきたのは、驚くほどの「冷めた納得感」だった。

(……やっぱりな)

最初から分かっていたことだ。

覚悟もないまま感情論で騒ぎ立て、都合が悪くなれば逃げ出し、自分はノーリスクのまま相手に要求だけを突きつける。そんな相手と、この「お互いの譲り合い」を前提とした調停というシステムで話し合いが成立するはずがなかったのだ。

裁判所という「話を聞いてくれる親切な場」に依存し、自分に都合の良い夢を見続けている相手に対し、調停委員の説得など届くはずもない。

不調に終わったことへの悔しさや落胆は、微塵もなかった。

むしろ、「これでようやく、このまどろっこしい茶番劇が終わった」という晴れやかな解放感すら覚えていた。

調停委員は不成立の書類を整えながら、少し気遣うような視線を私に向けてきた。

「ご主人……残念な結果にはなりましたが、これで調停手続きはすべて終了となります。今後のことにつきましては、書類等を整理された上で、次のステップをご検討ください」

「分かりました」

私は短く答えると、静かに椅子から立ち上がった。

「お世話になりました」

深く頭を下げ、調停室のドアへ向かう。

背後で調停委員たちが静かに見送る気配を感じながら、私は一度も振り返ることなく、重いドアを押し開けた。

4. 審判の庭へ

裁判所の長い廊下を歩く。

壁に貼られた各種の手続き案内、無機質なパイプ椅子、すれ違う弁護士や職員たちの足音。

1回目、2回目の調停が終わったとき、この廊下を歩く私の足取りは鉛のように重かった。不毛な話し合いに疲弊し、終わりが見えない暗闇の中に放り出されたような絶望感にさいなまれていたからだ。

だが、今日の足取りは違った。

地に足がつき、一歩一歩が確固たる意志に満ちていた。

「不調」——それは一見すると、話し合いが失敗に終わったことを意味する言葉だ。

しかし、私にとっては違う。

それは、逃げ回り続ける相手の「逃げ道」を完全に塞ぎ、土俵を強制的に移動させるための、絶対に必要なプロセスだったのだ。

話し合いで解決できないのであれば、ルールに基づいて機械的に裁く場所へ行くしかない。

調停という「お互いの譲り合いを期待する生ぬるい場」は、これで終わりだ。ここから先は、感情論も、被害者気取りの言い訳も一切通用しない、法的証拠とロジックだけが支配する「訴訟(裁判)」の世界だ。

ここまで来たら、残された道は一つだけ。

訴訟を提起するのみだ。

胸の中で、熱い炎が静かに燃え上がるのを感じた。

休日の土曜日、淹れたてのコーヒーすら飲む気になれず、Macのキーボードを叩き叩き叩き、深夜まで法的な手続きとロジックを調べ上げたあの夜。

相手が突きつけてきた「婚姻費用増額」という甘え切った要求に対し、自ら「離婚調停」を叩き返したあの瞬間に、私の覚悟はすでに決まっていたのだ。

待ったなしでやろう。

不調の書類が届いたら、躊躇することなく次の手を進める。家庭裁判所の調停室ではなく、裁判官が判決を下す「法廷」へと舞台を移すだけだ。

相手はきっと、動揺するだろう。

「まさか本当に裁判まで起こしてくるとは思わなかった」と、青ざめた顔で騒ぎ立てるに違いない。自分は安全な高みから要求だけを突きつけ、不都合になれば不調にして逃げ出せると高をくくっていた相手にとって、裁判所から届く特別送達の「訴状」は悪夢以外の何物でもないはずだ。

だが、もう容赦はしない。

私の貴重な人生と時間、そして血汗を流して稼いだ金を、これ以上あんな中途半端な姿勢に切り売りするつもりは毛頭ないのだ。

裁判所を出ると、澄んだ秋の空気が頬を撫でた。

見上げた空は、驚くほど高く、青く澄み渡っていた。

駐車場へ向かい、愛車のドアを開ける。

運転席に乗り込み、エンジンスイッチを押すと、聞き慣れたエンジン音が静かに車内に響いた。

シートベルトを締め、両手でしっかりとハンドルを握りしめる。

片道2時間、往復4時間。

これまで嫌というほど自分を痛めつけ、同時に「自分を上空から見下ろす変な癖」を養ってくれた、あの長い長い通勤路が私を待っている。

しかし、今日走る帰り道は、これまでとは全く違う景色に見えるはずだ。

「あとは裁判官に決めてもらって、スッキリして次に進もう」

車内というプライベートな空間で、一人、静かに、しかし確固たる声で呟いた。

その言葉には、一切の迷いも、悲壮感もなかった。

曖昧な関係も、理不尽な要求も、うやむやにされた過去も、すべて法廷の場に引きずり出し、裁判官の白黒ハッキリとした判決によって清算してもらう。

家も、財産も、親権も、すべてのケジメをつけ、完全な決別を果たす。

裁判官に決めてもらって、スッキリして、前に進む。ただそれだけだ。

ギアをドライブに入れ、アクセルを静かに踏み込む。

車体はスムーズに加速し、裁判所の敷地を抜け、眩しい光が差し込む公道へと躍り出た。

自分の人生の舵(ハンドル)は、今、間違いなくこの手の中にある。

迷いを開け放った私の心は、果てしなく続く道路の先にある「新しい未来」に向かって、かつてないほど力強く拍動していた。

(了)

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