繰り返される平行線
三回目の調停。家庭裁判所の廊下を歩く自分の足音が、妙に耳に響く。 この数ヶ月で、この場所の空気にはすっかり慣れてしまった。いや、慣れたというのは語弊がある。この無機質な空間が放つ、人間の感情を削ぎ落としていくような感覚に、心が麻痺してきたというのが正しいのかもしれない。
いつものように女性の調停委員が相手方の待合室に呼びに来た。調停委員に促されて調停室に入ると、いつも通り男性の調停委員が座っていた。調停委員の手元にある分厚い記録ファイル。そこには、私という人間のこれまでの人生と、バラバラになった家族の形が、紙の束として積み重なっている。
「さて……前回からの続きになりますが、親権についてお互いの主張に変わりはありませんか?」 女性委員が、事務的な口調で切り出した。
私の答えは決まっている。一瞬の迷いもなかった。 「ありません。親権だけは、どうしても譲ることはできません」 何度も口にしてきた言葉だ。だが、その一言に込める重みは、回を追うごとに増していく。相手方は「母親であること」と「現在の養育環境」を盾に、一歩も引く気配はない。
しかし、連れ去られたという事実は消えない。娘の成長を見守る権利を、なぜ私が一方的に剥奪されなければならないのか。それを認めれば、私は自分の中の「父親」を殺すことになってしまう。
なぜ、父親は弱い立場なのか、どうしても理解できない。
五万円という限界
話は、婚姻費用と面会交流へと移る。 「婚姻費用についてですが、相手方はもっと高い金額を求めています。算定表の上限に近い額を、という希望ですが……」 私は机の下で拳を握りしめた。
「月、五万円。それが私の限界です」 絞り出すように言った。 冷徹な計算式が弾き出した数字と、現実の生活の間には、埋めようのない溝がある。私には、共に暮らす長男がいる。彼の将来のための学費、日々の食費、そして片道二時間の通勤にかかるガソリン代。何より、壊れかけた私の心を守るための、最低限の生活の基盤。
「これ以上を支払えば、私と長男の生活が破綻します。五万円というのは、私の誠意の限界なんです」 調停委員は顔を見合わせ、何かをメモする。彼らにとって、これは単なる数字の調整に過ぎないのだろう。だが私にとっては、血を流しながら差し出す、最後の一滴の余裕なのだ。
月に一度、わずか数時間の親権
「では、面会交流についてはどうお考えですか?」 「月に一度。それだけは、何があっても確保したい」 私はそう食い下がった。 月に一度。一年でわずか十二回。娘が大人になるまでの時間を、そんな細切れの断片だけで繋ぎ止めることができるのか。
本当は、毎日でも会いたい。小学校での出来事を聞き、一緒に公園を走り回り、夜は絵本を読んで寝かせたい。だが、今の状況でそれを望むことが、どれほど「贅沢」なこととして処理されてしまうか、私は痛いほど知っていた。
「相手方は、お子さんの負担を考えて、もっと回数を絞るべきだと言っていますが……」 「これ以上、何を削れと言うんですか!」 思わず声が荒くなった。
「月に一度、数時間会うことすら否定されるなら、私は一体何のためにここで話し合っているんですか? 娘にとって、父親はもう死んだものとして扱われるべきだと言うんですか?」
静まり返る部屋。
エアコンの作動音だけが虚しく響く。調停委員は困ったような顔をして、視線を落とした。日常が、ある日、突然、非日常に変わる。この気持ちは同じ立場に立たないと絶対にわからない。
私は、何があろうと戦う。決して譲らない。
「不調」という結末
時計の針は無情に進む。 調停室と待合室を交互に行き来する、あの「待ち時間」が今日は一段と長く感じられた。 廊下の長椅子に座り、天井の染みを眺める。相手方は別の部屋で、同じように弁護士と話し合っているのだろう。
かつては一つの食卓を囲み、同じ布団で眠っていた家族が、今は厚い壁を隔てて敵対し、権利と義務の奪い合いをしている。 再び呼ばれて部屋に入ると、調停委員の表情には「諦め」の色が浮かんでいた。 「……残念ですが、親権についての合意が得られそうにありません」 男性の調停委員が、重い口を開いた。
「法律上、親権が決まらなければ離婚は成立しません。婚姻費用や面会交流についても、親権という根幹の部分が平行線である以上、ここでこれ以上の調整を続けるのは難しいと判断します」 その言葉が意味するものを、私は静かに受け止めた。
「つまり……『不調』ということでよろしいですね?」
「はい。本件調停は、不調により終了となります」
不調。 それは、数ヶ月に及ぶこの話し合いが、何の結果も残さずに瓦解したことを意味していた。
離婚は成立せず、家族の形は歪んだまま固定される。私は依然として、娘に会えない父親のままであり、相手方は婚姻費用という名の送金を待ち続ける生活が続く。 出口を見つけるために迷い込んだ迷路の行き止まりで、私たちはただ、背中を向け合って立ち尽くすことになった。
解決しないまま
裁判所の重い玄関を出ると、季節外れの冷たい風が頬を叩いた。 私の手元には、何の解決も、もたらさなかったクリアファイルが残っている。 結局、何も変わらなかった。娘の笑い声は遠い記憶のままで、明日からもまた、あの静かすぎる家で四時半に起き、弁当を作る日々が続く。
だが、不思議と後悔はなかった。
「親権は譲れない」 その最後の一線を守り抜いたこと。それが、私が父親として自分に課した最低限の誇りだった。もし、あそこで妥協して離婚届に判を押していれば、私は一生、鏡に映る自分の顔を見ることができなかっただろう。
調停が不調に終わった。これからどうなるのか。相手方はどう動くだろうか。裁判が始まるのだろうか。裁判になれば、調停のような「話し合い」ではなく、お互いの落ち度を突き合い、泥を投げ合う消耗戦になるだろう。
さらに長い年月と、莫大な精神的エネルギーを奪われることになる。 駐車場に向かって歩きながら、私は大きく息を吸い込んだ。 空には、薄い雲が広がっている。
「俺、頑張れよ」
誰に言うでもなく、自分自身に心の中で声をかける。 まだ、何も終わっていない。いや、ようやく本当の戦いが始まったのだ。 車に乗り込み、エンジンをかける。 バックミラーに映る自分の目は、数ヶ月前よりも少しだけ鋭くなっているような気がした。
娘を抱きしめるその日まで。
父親としての自分の居場所を、取り戻すその日まで。
私はこの道を、どれほど遠くても、歩き続けるしかない。
シーズン1(完)

