【実録】第五章 譲れない親権と号泣した調停室

人生

相手方

家庭裁判所の入口をくぐった瞬間、独特の空気が肺に流れ込んできた。

役所の無機質さと、病院の張り詰めた静寂を混ぜ合わせたような、あの独特の重さ。廊下を歩く人々は、誰もが目を伏せ、口を閉ざしていた。ここに来る人間で、笑って来る者などいない。全員が、何かを失いかけているか、すでに失った者ばかりだ。

受付で名前を告げると、「相手方待合室でお待ちください」と事務的に案内された。

相手方。

その言葉が、ずしりと胸に落ちた。申立人は妻、相手方は私。娘と一緒に暮らしたい、ただそれだけを望んでいる私が、気づけば「相手方」という立場に押し込められていた。案内された廊下の先、申立人待合室の前を通るとき、扉の向こうに妻がいるのだとわかった。

言いたいことは山ほどあった。
なぜ、黙って娘を連れて行った。
なぜ、娘を会わせない。
なぜ、私は、自分の娘に会うために有給休暇を使わなければならないのか。
なぜ、兄弟をバラバラにした。

ぐっと奥歯を噛み締め、ただ待った。


手紙

待合室に座る前、私はバッグから一枚の封筒を取り出し、手の中でしばらく握りしめた。

調停に呼ばれてからの一ヶ月間、私は書いた。夜中に目が覚めるたびに、娘への気持ち、今の自分の思い、これから伝えたいことを、便箋に書き綴った。「うまく話せないかもしれない。感情が溢れて、言葉にならないかもしれない。だから、書いておこう」と思ったのだ。

娘へ。パパはここにいるよ。毎日、お前のことを考えているよ。——

調停委員に渡すつもりで持ってきた手紙だった。この気持ちを、少しでも伝える手段が他にない。法的な書面でも、弁護士の言葉でもなく、ただ父親として書いた言葉を、誰かに見てほしかった。


調停委員

時間になり、無機質な会議室へ通された。

テーブルを挟んで、年配の男性と女性の調停委員が並んで座っていた。二人とも、穏やかな表情だった。丁寧な口調だった。でも、最初の数分で気づいた。この穏やかさは、私への共感ではなく、職業的な中立性だ。

彼らにとって、私の話は「案件」であり、私の涙は「双方の主張の食い違い」というデータの一部に過ぎない。

調停が始まるとすぐに、一本のビデオを見させられた。

子供の心理や、離婚・別居が子供に与える影響について解説した、行政が制作したような動画だった。画面の中で、専門家らしき人物が穏やかに語りかけてくる。「子供は両親の争いに傷つきます」「子供の気持ちを最優先に考えてください」。

わかってる。わかってるよ、そんなこと。

娘を傷つけているのは、私ではない。突然、何の説明もなく娘を連れ去り、父親と引き離したのは誰だ。なぜ私が、この椅子に座って、こんな動画を見せられなければならないのか。腹の底で、言葉にならない怒りが渦を巻いた。

でも、表情には出さなかった。出せなかった。ここで感情的になれば、私が「問題のある父親」になる。それだけはわかっていた。


おもい

調停委員の前で、私は手紙を差し出した。

「これを……読んでいただけますか。うまく話せるか自信がなくて。娘への気持ちと、今の自分の思いを書いてきました」

調停委員は受け取り、静かに目を通した。

「とにかく、娘に会わせてください」

私は言った。妻の書面に書かれた「性格の不一致」「同居が困難」という言葉への反論は、その時どうでもよかった。いろいろ言いたいことはある。でも、そんなことより、一刻も早く娘に会いたかった。

面会交流の取り決め、婚姻費用の話、親権の問題——調停委員は一つひとつ、淡々と確認してきた。

婚姻費用について話が及んだとき、私は思わず声を荒げそうになった。連れ去った側が、生活費を請求してくる。法律の上では正当な権利なのかもしれない。でも、娘を奪っておきながら、お金だけは要求する。その理不尽さに、胸の奥で何かが軋んだ。

親権についての話になったとき、私は静かに、でもはっきりと言った。

「親権は、譲りません」

調停委員が、少し表情を変えた気がした。

「お気持ちはわかります。でも、現実的に……」

「わかっています。連れ去った側が有利になることも、私が不利な立場にいることも。それでも、譲れません。娘の父親として、それだけは曲げられない」

声が震えていた。でも、言葉だけは、まっすぐ届けた。


あふれる涙

調停の終盤、調停委員の女性が、ふと穏やかな声で言った。

「お父さん、娘さんのことが、本当に大切なんですね」

その一言だった。

こらえていたものが、一気に決壊した。

「……会いたいんです。ただ、会いたいだけなんです」

声にならなかった。嗚咽が、喉の奥から溢れてきた。みっともないとわかっていた。大人が、こんな場所で泣くものではないとわかっていた。でも、止められなかった。この数ヶ月間、警察署で、自宅で、車の中で、ずっと一人で押し込めてきたものが、その小さな一言で全部溢れ出した。

調停委員は何も言わず、静かにティッシュの箱を差し出した。


憎しみ

帰り道、私はしばらく裁判所の前に停めた車の中で動けなかった。

ハンドルに額を押し当て、ただ息をした。

なんで、俺はこんなところにいるんだろう。

半年前まで、ごく普通の父親だった。週末には娘と公園に行き、夕飯の後には一緒にテレビを見て、「パパ、明日も早く帰ってきてね」と言われるたびに、疲れも吹き飛んだ。それが今、自分の娘に会うために、法律の手続きを踏んで、他人に頭を下げて、密室で涙を流している。

なにげない日常が、非日常になった。

この状況を望んでいるのは、妻だけなのに

妻への憎しみが、じわりと胸に広がった。

娘を傷つけたのは、あなただ。父親のいない日常を、娘に強いているのは、あなただ。あの子は今、何を思って毎日を過ごしているのか。パパはどこに行ったんだろうと、泣いていないか。それとも——パパのことを忘れかけていないか。

その想像が、一番怖かった。


負けない

調停は、月に一度しか開かれない。

次の期日まで、また一ヶ月。その間、娘の声は聞けない。顔も見られない。どんな顔で笑っているか、何を食べているか、友達と仲良くやっているか——何も知らないまま、ただ時間だけが流れていく。

それでも、私は再び資料の束に向き合い、次の期日の準備を始めた。

娘に会える日まで、このリングから降りるわけにはいかない。どんなに理不尽でも、どんなに孤独でも、娘が「パパ」と呼んでくれる声を、もう一度この耳で聞くまでは。

戦い抜く

(第六章へ)


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