※このブログは実体験をもとに書いていますが、プライバシー保護のため一部の情報を調整しています。
満開の桜と、不穏な通知
8年前の春。窓の外には、残酷なほどに美しい桜が咲き誇っていた。 新しい年度が始まり、世の中が希望に満ちているような、そんな穏やかな日のことだ。
その日は、あまりにも突然やってきた。
午後、仕事の合間にスマホが震えた。画面に表示されたのは、当時高校1年生だった長男からのメール。 普段、用事もなしに連絡を寄越すようなタイプではない。ましてや、仕事中にメールが来ることなんて滅多にない。その瞬間、心臓の奥が「スッ」と冷たくなるような、嫌な予感がしたのを今でもはっきりと覚えている。
メールを開くと、本文はなかった。 ただ、一枚の写真が添付されているだけ。
そこに写っていたのは、見慣れた我が家のダイニングテーブル。 その真ん中に、ポツンと置かれた一枚の白い紙。
「子供を連れて家を出ます。」
妻の、見慣れたはずの、でもどこか冷徹な筆跡。 一瞬、文字の意味が脳を素通りしていった。 「家を出る? どこに? なんで?」 頭の中が真っ白になるとは、まさにこういう状態を指すのだと思う。オフィスの喧騒が遠のき、自分の心拍音だけが耳元で大きく響いていた。
すぐに妻の携帯に電話をかけた。しかし、呼び出し音すら鳴らずに留守番電話に切り替わる。 次に、中学3年生だった次男の携帯。こちらも同じだ。 何度繰り返しても、返ってくるのは無機質なガイダンスの声だけ。
私の胸の奥で、ガラガラと何かが音を立てて崩れ始めていた。 ドラマや小説で見かける「夜逃げ」や「蒸発」といった言葉が頭をよぎるが、「まさか自分の人生に、そんなことが起きるはずがない」という否定の気持ちが、必死に現実を押し戻そうとしていた。
異様な静寂に包まれた家
仕事を定時で切り上げ、職場を出た。 駐車場の車に飛び乗り、高速道路を飛ばした。 いつもなら1時間かかる道のりを、どれくらいの時間で走ったのか覚えていない。 ただ、アクセルを踏み込み、急いだことだけは覚えている。
「何かの間違いであってくれ」 「帰ったら、いつものように食卓に食事が並んでいるんじゃないか」 そんな淡い期待を抱きながら、玄関のドアを開けた。
「おーい」 私は、叫んだ。
返事はない。 家の中は、不気味なほどに静まり返っていた。 そこには確かに、つい数時間前まで家族が暮らしていた「生活の匂い」が残っている。脱ぎ捨てられた靴、洗面所に置かれた歯ブラシ。 なのに、肝心の「人の気配」だけが、根こそぎ消え去っているのだ。
テーブルの上には、写真で見たあの手紙が、主(あるじ)を失ったかのように置かれていた。 そして、その横には、さらに衝撃的なものが並べられていた。 私の通帳と、印鑑。
結婚以来、家計のすべては妻に任せていた。私の給料口座も、貯蓄用の口座も、すべて彼女が管理していた。 震える手で通帳を開く。 最新の行に刻まれた残高を見て、私は絶句した。
「30万円……」
家族のために必死に働いてきた、その結果がこれなのか。 家族5人の生活を支えてきたはずの蓄えが、たったこれだけ? 怒りというよりも、深い虚脱感が私を襲った。 何の説明もない。ただ「家を出ます」という紙切れ一枚と、底をついた通帳。 私は、自分の人生そのものを否定されたような、耐え難い重圧を胃のあたりに感じていた。
そして、一つの疑問が頭から離れなかった。 「なぜ、長男だけが残されたのか?」 三人の子供のうち、高1の長男だけを置いて、中3の次男と、まだ幼かった娘を連れて行った妻。 家族をバラバラにした彼女の意図が、どうしても理解できなかった。
宛先不明の捜索
長男はメールで「今日は友達の家に泊まる」と伝えてきていた。 彼もまた、混乱の中にいるに違いない。 一人で家の中にいると、静寂が喉元を締め付けてくるようだった。 私はたまらず、再び車に乗り込んだ。
「まだ近くにいるはずだ」 「子供たちは学校に通っている。転校なんてすぐにできるわけがない」 そう自分に言い聞かせ、夜の街を彷徨い始めた。
子供たちの友達の家。 よく遊びに行っていた公園。 家族で何度も通ったスーパーや、深夜のコンビニ。 校区内にある、手頃なアパートの駐車場。
目を皿のようにして、見覚えのある車や姿を探した。 街灯の下を歩く人影を見るたびに、心臓が跳ね上がる。 しかし、どれだけ回っても、そこに私の家族はいなかった。
夜が更けるにつれ、街は眠りについていく。 走れば走るほど、自分が「世界の果て」に取り残されたような感覚に陥っていった。 2時間程度探し回ったが、結局、何も見つけられないまま、深夜に帰宅した。
テレビもつけず、明かりも最小限にしたリビングで、一人。 かつて子供たちの笑い声が響いていた場所で、私は膝を抱えて座り込んでいた。 「明日から、どうすればいい?」 「仕事はどうする? 長男との生活はどうなる?」 答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると回り続けていた。
嗚咽する長男と、動き出した歯車
翌日の朝。 一睡もできないまま迎えた夜明け。 物音で目が覚めた。トイレの方から、押し殺したような、でも堪えきれないような声が聞こえてくる。
それは、長男の泣き声だった。 嗚咽とともに漏れる、絞り出すような声。 高校生になり、少しずつ大人びてきた彼が、幼子のように泣きじゃくっていた。
私は、声をかけることができなかった。 何を言えばいい? 「大丈夫だ」なんて、嘘でも言えなかった。 母親に、置いていかれたという事実が、どれほど彼の心を切り裂いたか。 想像するだけで、視界が滲んだ。
しばらくして、トイレから出てきた長男は、赤く腫らした目でボソリと言った。 「……今日も、友達のところに泊まる」
彼なりに、この地獄のような空気から逃げ出したかったのだと思う。 あるいは、父親である私の崩れそうな姿を見たくなかったのかもしれない。 「わかった。気をつけてな」 それだけ言うのが精一杯だった。 バタンとドアが閉まる音。 またしても、私は一人になった。
それから数日後。 ポストの中に、一通の封書が届いた。 差出人は、家庭裁判所。 厚みのある封筒を手に取った瞬間、指先が冷たくなった。
中に入っていたのは、見慣れない法律用語が並んだ書類。 「離婚調停申立書」
その文字を見た瞬間、全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。 話し合いも、事前の相談も、一切なかった。 しかし、彼女の側では、周到に準備が進められていたのだ。
私は、この時はまだ知らなかった。 これが、これから先何年にもわたって続く、泥沼の調停と裁判の幕開けであることを。 そして、かつての「家族の形」が、二度と戻らないほど粉々に砕け散ってしまったことを。
「壊れたコップは、元には戻らない」
よく言われるが、その通りだと感じた。
この冷酷な真実だけが、私の心に深く刻まれていた。 私の知らないところで、すでに「戦い」の火蓋は切って落とされていたのだ。
(第二章へ続く)

